【前回の続き】ポワロの髭。自分らしくあるってどんな感じか考えた話
こんばんわ。
すてきブログの時間ですよ。
今日は、前回の話の続き。
前回のブログを書いてから、さらに色々なことを考えたのでその話です。
前回は、女性性と男性性と、あと「星的マイノリティ」の話を書きました。
それでね、ちょうどブログを書いているときに、なぜかEテレのびじゅチューンという番組の、「審判はフリーダ」という曲が、頭の中を駆け巡りまして。
びじゅチューンはとても好きで、Youtubeで色々みたりしていたのですが(うちにはテレビがないのでYoutubeで見る)、「審判はフリーダ」は多分一回しか聞いてない。それが、なぜか気になりだして改めて見てみました。見ても訳がわからない。ということで、この作品のもとになった(びじゅチューンは、芸術作品や芸術家をモチーフにした曲とアニメーションの番組なのです)フリーダ・カーロという人物について調べてみたのです。
「審判はフリーダ」の曲の元になった、フリーダ・カーロの自画像も見たし、他の自画像も見たんだけど、強烈に何か惹かれる。そして引っかかる。
まず、強い眉毛が眉間でつながっていたり、ヒゲも生えてる?
そして強い目。
フリーダ・カーロの生涯を見ると、とても痛い目に合っていた人だということがわかりました。
病気になったり事故に遭ったり。夫が遊び人だったり。
もっとちゃんと、調べてみたいと思いました。
しかし、なにか、なんでか、このタイミングで、この画家を調べるように仕向けられたような感じがしました。
たぶん、以前の私だったらここまで惹かれていないなと思うのです。
そうこうしているうちに、ブログが書き上がりまして。
でね、今日ね。
眉毛ペンでエルキュール・ポワロみたいなヒゲを描いてみたです。
そうしたら、私、ヒゲが、本当に似合うんです。自分でもびっくりするぐらい。
それに、なんか、心の底から笑いがこみ上げてきちゃって、同時に涙も出てきた。
あのですね。
私、子供の頃から鼻の下の毛がとても濃くて、それがコンプレックスだったのです。
どのくらいかというと、写真に撮ったらわかるくらい。
それでいじめられたことは、なかったけれど(私、強気だったので、そういう見た目のこと言われるのは我慢ならなかったし。何か言われたらやりかえしていたのかも)、でも本音はずっと気にしていました。
中学生の時に、ある男子生徒と喧嘩をして、ヒゲのことを言われて、ワッと泣いたことがありました。
それから剃るようになったんだった。
それまでは、剃ると毛が濃くなるし、抜くと毛穴が大きくなると言われていたので、気にしつつもそのままにしていたのでした。
そういうことを言う人がいるんだよな。(まったく。困ったもんだ。ブツブツ)
まあそんな感じで20年以上、毛抜きで抜いたりしてたんだけど。
フリーダ・カーロは、堂々としていて、かっこいいし、これが私!って感じがしてすごく羨ましくなったんです。
絵で「私はこう!」って表現できるのいいな。と思いました。壮絶な人生だけど、後で見た人にもそれが伝わってくるし。
というわけで、ちょうど、マスクしてても変じゃないコロナの時期に、伸ばしてみようかな、どうしようかな、というわけで、ポワロしてみたのです。
すっごく楽しかったです。
なんだそういうことだったの?男性の格好がしたかったの?とも思ったんだけど、それも違う。
たぶん、自分のままであるという状態になりたいんだと思います。
以前、The Portalの中の引用記事で、女性のあらゆる毛は、性的エナジーの発露だから剃るな、的な記事が出ていて、当時結構騒ぎになったことがありました。
脇毛は剃るなとか。
なんか、女性の脇毛とかすね毛とか、腿の付け根のあたりとか。こんなに、脱毛するのが当たり前なのって、もしかしたら日本と、他の一部の地域だけかもしれない。日本人の肌の色に対して毛の色が黒!目立つ!というのもあると思うんだけど。世界の常識!ではないと思います。
イスラム圏の国へ海外協力隊に行った人に聞いた話では、その国では男性の陰毛は全剃りが当たり前で、日本人の彼が剃っていないと言うと「きったねー!」と(現地の言葉で)言われたとか。
衛生観念から剃っているんだなと言うことがこの話からわかるけど、剃った方が衛生的か?それはどうだろう。
この辺りの話から、美容観とか衛生観とかは、結構、誰かの都合の良いように曲解されたりコントロールされているのではないかと思います。
日本語のサイトで、女性のヒゲについてのポジティブな発言は一切見つけられなかったもんな。
ちょっと調べてるうちに憂鬱になっちゃったよ。
まあいいや、面白そうだから、そのまんまの自分、見てみよう。
自分を表現したり、自由に振る舞うって、楽しいことなんだなと気づきました。
昔からそれができていたら、自由で楽だったかもしれないけど、この年になるまでできなかったことができるようになる、というカタルシスもまたよしとします。